About

全国のCDショップに並んだり、
夜な夜なコンサート会場を沸かせる
「音楽」
でも「音楽は」それだけじゃない

たとえば小さなアパートの一室で 何気ない感情によって生まれた鼻歌もまた 「音楽」

そんな特別じゃないありふれた音楽で
少しだけあなたと僕が繋がれたらいいと
小さなレーベルを作りました

音楽は腹を満たさない
音楽はCO2を減らさない
音楽は戦争を超えない
音楽は何もなさないかもしれない

なぜなら何かをなすのは人と、人の力だから

けれども何かをなそうとする人のかたわらに
誰かと分かりあおうとする人のかたわらに
小さな音楽を響かせられたらと
今日も歌をうたいます

■主宰者 三田村 潤 (ミタムラ ジュン)

JOY MUSIC RECORDSの中の人 プロフィール

1980年7月8日、石川県小松市に三田村家次男として生まれる。

小学校入学。以降、体育の時間が嫌いという特異なキャラクターで文系街道をひた走る。 光GENJIを初のアイドルとし、自身もローラースケートを乗りこなす。

5年生の時に、帰りの会で毎日フォークギターの弾き語りをするというフリーダムな担任の先生と出会う。この経験が音楽とギターという楽器をずっと身近なものにしたと思う。たぶん。

小学6年生のときにお年玉を握りしめてデパートへ駆けつけ念願のCDラジカセを購入。 デパート初売りの混雑ぶりに疲弊し人酔いを起こす。初めて買ったCDはB'zの『RUN』

1993年、中学校入学。部活動原則強制という制度の元、ほぼ運動部しかないという選択肢の中、なるべく地味そうな卓球部に入部。意外にもハードな練習にめげる。 音楽的にはヒットチャート大好き人間となりその手のランキングは欠かさずチェックするようになる。

中学3年冬、一般的には高校受験で殺伐とする中、空気を読まずに貯金をおろしエレキギターを購入。 当時、爆風スランプのパッパラー河合が使っていたYAMAHAのモデルの廉価版であった。 ちなみに受験下の雰囲気も手伝ってギターを始めたこともあまりおおっぴらにできずまわりで教えてくれる人もおらずこの頃はあまり上達しなかった。

1996年、小松市立高校入学。女子校から男女共学校となる記念すべき第一期生として入学。 運動部の呪縛から逃れ、選択肢の増えた文化部の中から興味のあった演劇部に入部。 しかし蓋を開けてみると部員が4人。スタッフ兼キャストはあたりまえ。一人二役、三役あたりまえ。 それでも脚本が埋まらなければ女装もするという必死さがアダとなりシリアスなはずの場面も途端にコメディとなる惨事を引き起こす。 校内では「女装の人」的立ち位置を獲得。

この頃、家の押入れからYAMAHAのアコースティックギターを発掘。 実は母親のもので、まさに70年代フォークブーム全盛期、ミーハー気分で買ったものだったらしい。 そもそもギターを弾けない母親の代わりにこの赤いチェックの可愛らしいケースのついたギターを譲り受ける。

高校入学しておよそ半年後、吹奏楽部にスカウトされる。ベースやドラムなどポップス系楽器を趣味にしている 男子部員達がいたこともあり演劇部と兼部することになる。担当楽器はチューバ。コントラバスを 弾きたかったチューバ吹きのT君の策略であった。

吹奏楽部にて未知の楽器チューバの練習に励む傍らエレキギターを音楽室に持ち込み 練習後、女子部員に白い目で見られながら男子部員でセッションすることが習慣づく。

楽曲をコピーしたり、ギターを練習したりというバンドキッズ的な習慣はこの頃から今に至るまでほとんどなく ある程度コードを押さえられるようになってからは作詞作曲活動に没頭するようになる。 後にエーテルスケッチ名義でCD化される「待合室」「初雪」「早春」「秋色」などの楽曲はこの頃作られた。

毎年の学園祭で即席バンドのギタリストとして活躍するがこの頃はまだ特定のバンドを組むことはなかった。 学園祭ライブ前日、意を決してBacchus社のフライングVタイプのエレキギターを購入。 このひときわ目立つV字のエレキギターを今後の自分のミュージシャン人生においてのひとつのビジュアルイメージに することを戦略化するが10年以上経った今もこの目的は達成されていない。

高校卒業後の進路を考えなければいけない時期にきて、就職か進学かを迷うもののいろんな人のありがたいススメで 進学を決意。とはいえもともと進学校ではなく設立1年目の高校ということもありなにかと手探りの受験勉強となる。 まるっきり数学ができなかったので「数学の試験がない大学」という虫のいい条件で大学を探す。推薦入試というありがたい 制度を使い岩手県の岩手大学に奇跡の合格。

1999年、岩手大学入学。ふるさと小松を離れ、岩手県盛岡市で初の一人暮らしを始める。雄大な北上川のほとりにアパートを借り、その寒さから冬場には何度も水道管を破裂させることになる。

かねてからの希望であった 「軽音楽部」に入部。新歓飲み会の席で「この場でバンドを組め」と先輩からの指令がくだる。新入生一同、誰が誰かもわからぬまま 自己紹介もそこそこに強引にバンドを組まされる。このとき出来たバンドが「ギャラクシアン・エクスプロージョン」。 ハードロック志向、DJ志向、J-POP志向、オリジナル曲志向などさまざまな価値観のメンバーが集まり、うまくケミストリーすれば ドラゴンアッシュの後を継ぐミクスチャーバンドになる予定であったが結局最後まで音楽的ミゾは埋まらず座礁。 一回のライブの後、バンドは自然消滅する。

その後、音楽をするのに何も徒党を組む必要はないと気づき軽音楽部を退部。今まで以上の加速度で楽曲制作にのめり込んでいく。 この頃、シーケンサー(コンピューター)を使った楽曲制作を開始。後のA to Zにつながるひとりバンド的なものを模索していく。

2000年冬頃から友人であった村田君がギターに興味を持ち始めこれがポップデュオ・エーテルスケッチの活動につながっていく。 エーテルスケッチとしての活動はエーテルスケッチBIOGRAPHYに詳しい。自室でのレコーディング環境が整っていき 完全自主制作音楽レーベル[JOY MUSIC RECORDS]を立ち上げ、以降数々の楽曲とCDを発表していく。

2003年、大学卒業を機にエーテルスケッチは解散。富山県魚津市で社会人としての新生活をスタートする。 しばしの充電期間の後、ソロプロジェクトA to Zを開始。よりロック寄りのアプローチに傾倒していく。

2006年以降は距離を超えた形でエーテルスケッチが奇跡の復活を果たし、A to Zと並行して音楽活動を邁進中。現在は石川県小松市在住。